肌も心も透明に。わたしに還る Holistic Care|HANA ORGANIC

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2022.4.27

ここから始まったら何でも出来そう。本当に、お金じゃなくて、楽しくて、夢しか持ってなくて。(栢木さん 前編)

 

栢木さん make-up kayaki susumu (su-su.jp)

 

≪プロフィール≫

栢木さんは、長野県木曽福島町(現木曽町)出身の45歳(令和4年4月現在)。都内の美容室勤務を経て、現在メイクアップ・アーティストとして活躍中。幅広い視点から女性像を提案し、個性を引き出し、似合わせることを得意として、ファッション、音楽、広告など、幅広く活動されている。

 

美容師、ヘアサロンとのコラボレーションも数多く、 JHA (ジャパン・ヘアドレッシング・アワーズ・アソシエーション)など、数々の賞も受賞。美容師向けのメイクアップ・スクール(http://su-su.jp/school/)を主催するなど、メーク講習等も積極的に携わっている。スクールのコンセプトは、

 

  • 誰にでも似合うメイクではなく、その人だけに似合うメイクを。
  • 美しくなる、美しくいられるという理想の状態を提案できるように。
  • サロンの未来像を共有して内容を組み立てます。

 

▼Instagram

@kayakisusumu

 

▼Collage art 

@post_anatomy

 

Make school

@kayakisusumu_anatomy

 

▼HP

su-su.jp/anatomy

 

 

 

 

栢木さんは、高校卒業後、美容専門学校を経て美容師からキャリアをスタートされました。カリスマ美容師のいる都内有名店の副店長まで勤め上げたのち、一転して、メークアップ・アーティストを目指してゼロから再スタート。

 

全く何のツテもないままニューヨークへ渡り、大道芸人さながら公園でのフリーカットから始められました。そこで知り合った様々な人達との出会いを通じ、メイクアップ・アーティストのアシスタントをするなどして腕を磨いていきます。

 

帰国後もフリーランスの立場で、アルバイトもしながら苦労されるなか、奥様と出会い、子宝にも恵まれました。そして、これからというときに大病に見舞われました。肺ガンを患い、手術しても取り切れませんでした。

 

前編では、栢木さんの生い立ちから、メイクアップ・アーティストとして大活躍されるようになるまでの、文字通り苦闘の人生を振り返っていただいたお話です。

 

(取材担当:加藤)

 

 

◆ 栢木さんのお生まれからお聞かせください。

 

 

 

 

 

◇   生まれは長野県南部の木曽福島町、今は合併して木曽町になっているところです。古い田舎町で、栢木家は先祖代々続く家でした。祖父は地元の名士でそれなりに裕福な家で、母は貧乏な家から嫁いで来たので栢木家に尽くす、というような古風な家でした。僕は末っ子なので、あまり叱られることもなく甘やかされて育ちました。

 

当時は恵まれた環境だと思っていたのですが、窮屈にも感じていました。中学を卒業すると家を出て、松本に住んでいる兄のところに転がり込む形でそちらの高校へ行きました。

 

高校時代はめちゃくちゃ楽しかったです。友達にも恵まれ、ようやく自由になったと思いました。学校サボって朝まで遊んだり、試験の前だけみんなで勉強してと、絵に描いたような高校生活でした。(編集注記:女の子にも人気があったようです)。

 

特に仲の良かった友達の実家がヘアサロンをやっていて、自分は床屋になりたいと思いました。何かを極めていくような職人に憧れを持っていたからです。その友達が美容学校に進学希望だったので、僕も東京の美容専門学校に進みました。

 

専門学校では、いろんな人がいましたが、僕はマジメに取り組んでいました。課題も毎回きちんとこなしました。

 

 

◆ 中学までは窮屈で、高校時代は自由を謳歌して、専門学校では一転マジメになったのですね?

 

◇   この1年はマジメにやる1年だと思っていました。たしかに両極端ですね(笑)。

周りのみんなはオシャレで、田舎者の自分にはコンプレックスがあったのでしょう。だからマジメにやるしかなかった。見てくれている人はいるだろうと。でも実際には、だれも見てくれてはいなかったのですけれど(笑)。

 

 

 

 

専門学校を出るとサロンに就職することになるのですが、特に行きたいところがなくて。先生が紹介してくれたサロンの面接に行ったら採用されたので、そこへ行くことにしました。後から知ったのですが、有名なカリスマ美容師のいるヘアサロンでした。

 

 

◆ 先生がそんなすごいところへ紹介してくれたのですから、やっぱり見てくれる人はちゃんといましたね!

 

◇   美容室に就職してからも、黙々と頑張りました。先輩には超マジメだねと言われたり。周りが錚々(そうそう)たる凄い人ばかりに見えて、もうやるしかなかった。そんなマジメなところを店のカットやヘアメイクで多くの女優さんたちを手がけている先輩がかってくれて、アシスタントにしてくれました。目の前の、足下をちゃんと踏んでいけば、それなりのところへは行けるんだと思いました。

 

その後、新しいサロンに副店長として引張ってもらい、指名も付くようになりました。でも、実際には自分は下手くそでした。アシスタントの仕事ばかりしていたのですから当然です。そんなとき、来店するお客さんが1万円札に見えるようになったのです。これはマズい、この感覚になったらいい仕事はできない、一旦ゼロに戻さないといけない、と思いました。

 

 

◆ それでいきなりニューヨークへメイク修行に!?

 

 

 

 

◇   当時(2001年)はネットもなくて何もわからないので、とりあえず現地の語学学校に行きました。

 

別に英語の勉強をしに来たわけではないので、ワシントン・スクエア・パークという公園でフリーカットを始めました。大道芸人やストリート・ミュージシャンみたいに、無料で髪を切ります、ということです。

 

そこからいろんな繋がりができました。後のルームメイトに出会ったり、メイクアップ・アーティストやりたいって言ったらアシスタントやらないかと誘ってくれる人がいたり。

 

 

◆ メイクアップ・アーティストとしての栢木さんが始まったのですね。全くのゼロから、全てを自分で始められた。

 

◇   そうすることで新たな発見がありました。こんなこともできるんだという感じ。極端な自分がいる、いつかスイッチが入ったらそっちに突っ走れるんだろうな、というのがあります。

 

ここから始まったら何でも出来そう。それこそ本当に、お金じゃなくて、楽しくて、夢しか持ってなくて。そこからアシスタントにつかせてもらったり、全ての始まりを自分が作っている実感がありました。

 

 

 

 

◆ そうして日本に戻って来られたのですね。

 

◇   ビザが延長出来なくなって、東京に帰りました。美容師に戻るつもりはなかったので、メイクアップの営業から始めました。ヘアメイク事務所やフォトグラファーのクレジットを見て電話したり、作品を見てくださいとお願いしたり。

 

それだけで順調に仕事が始まる訳もなく、バイトをしながら少しずつ広げていきました。それが35歳くらいまで続きました。結婚して子供もできたけれど、フリーランスでした。

 

 

◆ 日本に帰って来たら来たで、何のツテもないフリーなのですから、かなり厳しいこともあったのではないですか?

 

◇   仕事もスムーズに行かなくて、素直になれない自分もいて、周りの同業者とか気にしちゃったり。自分で自分をコントロールしようと思えば思うほど、全然上手く行かない時期でした。

 

<そんな大変なときに病魔が襲いました。肺ガンと診断され、手術しても取り切れず、ガンは残ってしまいました。>

 

 

 

 

◇   手術の後、抗癌剤治療の説明を受けました。でも、説明を聞いているうちに、だんだん肚が立ってきました。先生はレントゲン写真に写った病気は診るけど、患者である僕のことを全然見ないのです。

 

これは違うなと思い、いろいろ奥さんと探しているうちにある漢方の先生に出会いました。その先生は、仕事は何やってるのか、家族はいるのか、子供いるのか、奥さんは何してる、いろいろ僕のことを訊いてくるのです。

 

この先生かなと思い、四国の土佐清水にある診療所に行きました。ガンを一気に叩くというのではなく、自分の身体のなかにあるものだから共生していけばいいんだと思いました。3ヶ月ほど入院して東京に帰って来ることができました。

 

病気を経験して、自分をリセットできた感覚があります。なんで病気になったのか、素直になれないとか、そういうものがちゃんとリセットできた感じ。

 

 

<病気を診るのではなく患者本人を診る。栢木さんの「その人だけに似合うメイク」の秘密はここにあるのかもしれません。メイク化粧品を使った目に見える色や形だけでなく、女性本人の内面の美しさを見て引き出しているのでしょう。

 

後編では、大病から快復後、リセットして生まれ変わった今の栢木さんと、今後の展望について語っていただきます。>

 

 

≫何を成したかではなく、どう取り組んだかを。その生き様のようなものをだれかに伝えられたらいい。(栢木さん 後編)

 

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